無(wú)論在哪個(gè)國(guó)家,都會(huì)不定時(shí)地出現(xiàn)一些流行語(yǔ),引得大家都爭(zhēng)相模仿。當(dāng)然,日本也不例外。學(xué)習(xí)日語(yǔ)的各位想必對(duì)此也多少有一定的了解。如果在平時(shí)能夠活用這些流行語(yǔ),或許能夠拉近彼此的距離,幫助我們更快地融入日本社會(huì)。
不過(guò),即使是流行語(yǔ),使用時(shí)也是要看身份和場(chǎng)合的,一旦無(wú)腦使用,也會(huì)百分百引來(lái)對(duì)方的不滿。本次,我們就為大家盤點(diǎn)人們眼中讓人聽(tīng)著就不爽的日語(yǔ)表達(dá)。
『はぁ?』と『やばい』
“啊”和“慘了”
どちらも単語(yǔ)としてはそれほど不快にはならないのですが、使い方によって不快になります。はぁ?の場(chǎng)合、「はぁ…」と語(yǔ)尾を下げて「はぁ、そうですか…」という感じで使われるのはそれほど気にはしないですが「はぁ~?」と語(yǔ)尾をあげて 「あんた何言ってんのぉ?」という感じの相槌で使用されるとかなり気分悪くなります。
作為單獨(dú)的單詞,兩者倒是都沒(méi)什么特別的,但是使用方法不同,可能就會(huì)招致別人的不快。說(shuō)「はぁ」的時(shí)候,如果是降調(diào),說(shuō)成「はぁ、そうですか…」的話,并沒(méi)有什么特別的,但是如果是升調(diào),「あんた何言ってんのぉ?」這么說(shuō)的話,聽(tīng)著心情就會(huì)變得很差了。
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遭遇回?cái)?shù)は少ないけど、自分の知らない事を話されたらすぐ 「はぁ~?」という人がいて、嫌なので途中から話を聞くだけにしてこちらからは話を振らないようにしました。
雖然我是不太遇到這種情況,但是我真的很討厭在對(duì)話中一碰到不明白的事就說(shuō)「はぁ」的人,于是我在聊天的過(guò)程中就干脆光聽(tīng)不說(shuō)了。
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「やばい」は(綺麗な言葉とは思いませんけど)本當(dāng)にまずいと思ったときに出るセリフとしてはあまり気にならないけど、若い女の子達(dá)が集団で食事 していて、美味しい料理に対して「コレ、ちょーやばくない?」「うん、やばいよね」と言っているのを聞いて「なんだか嫌なほめ方だな」と感じました。
“慘了”(我并不認(rèn)為它是啥好詞)用在非常糟糕的情況下是很正常的。但是現(xiàn)在,年輕的女性一起吃飯,面對(duì)美食的時(shí)候都會(huì)不停地說(shuō)「コレ、ちょーやばくない?(這個(gè),真不得了呢)」「うん、やばいよね(嗯,不行了都)這樣的話」,感覺(jué)聽(tīng)了很不舒服。
可愛(ài) いものにも「コレ可愛(ài)くてちょーやばい」とか言っているし…。
對(duì)于可愛(ài)的東西,她們也會(huì)說(shuō)「コレ可愛(ài)くてちょーやばい(這個(gè)可愛(ài)得受不了啦)」,真是無(wú)語(yǔ)。
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『自分探し』 が嫌いです
討厭“尋找自我”
いい大人が「自分探しの旅」に出る、などと言うのを聞くに付け、とても殘念な気持ちになります。それまで何十年も生きてきて、まだ『自分』を探さないとその何たるかがわからないのか?今まで一體何を考えて生きて來(lái)たのか?何の理念も持たずに、のんべんだらりと生きて來(lái)たのか?と軽蔑さえしてしまいます。
有些成年人,都老大不小了,動(dòng)不動(dòng)就說(shuō)要踏上“尋找自我的旅行”我每次聽(tīng)到這種話就會(huì)感到萬(wàn)分遺憾。你說(shuō)你都活了幾十年的人了,到現(xiàn)在還沒(méi)找到自我呢,那你人生的意義在哪里呢?這些人至今為止究竟在想什么,是怎么生存過(guò)來(lái)的?我都禁不住要藐視他們。
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物を『この子』と呼ぶ
把東西稱作“這孩子”
よくブログを書くような女性に多い気がするのですが、自分の愛(ài)用している化粧品や洋服、小物などを「この子」と表現(xiàn)する人がいます。例えば「肌が乾燥しちゃった時(shí)には、もうこの子をパシャパシャつけて潤(rùn)してます♪」などと愛(ài)用の化粧水をこの子呼ばわりで紹介してみたり…
我經(jīng)常逛博客,感覺(jué)有許多女生都喜歡將自己喜歡的化妝品啦衣服啦或者一些小玩意兒叫做“這孩子”。比如說(shuō),在介紹自己喜歡用的化妝水的時(shí)候,會(huì)說(shuō):“皮膚干燥的時(shí)候,用這孩子噴上一點(diǎn),瞬間就濕潤(rùn)了”等。
「この子に一目 惚れして即購(gòu)入!」と買った服を紹介する…など、物を擬人化させて「この子」と呼んでいるのを見(jiàn)たり聞いたりするとゾッとします。
在談?wù)撟约嘿I的衣服時(shí),會(huì)說(shuō):“我與這孩子一見(jiàn)鐘情所以買下了!”這種擬人化的說(shuō)法,把東西稱為“這孩子”的說(shuō)法總讓人聽(tīng)了不太舒服。
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何でもかんでも『活動(dòng)』
無(wú)論什么事情都要強(qiáng)加一個(gè)『活動(dòng)』
「就活」、「婚活」と來(lái)て、とうとう次は「妊活」なのか・・・。命すら自分の努力で手に入らないものはない!という驕りが感じられるから。何でも「~活」すりゃいいってもんじゃないよ、と思います。
繼“就活”(求職活動(dòng))“婚活”(為結(jié)婚展開(kāi)的活動(dòng))之后,居然連“妊活”(為懷孕生產(chǎn)而展開(kāi)活動(dòng))也出現(xiàn)了……只要憑借努力,就沒(méi)有什么不能夠掌控的,這樣的感覺(jué)未免太傲慢了。我覺(jué)得并不是什么事情都適合加上“活動(dòng)”的。
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さすが……
真不愧是……
タイトル通りの言葉ですが、初対面で言われた時(shí)に不快でした。十分大人の女性に言われ、なんとなく軽々しい人に思いました。使う場(chǎng)合は、相手の普段の行動(dòng)を知っているとか、気ごころの知れている相手に対しての褒め言葉だと思います。
如果對(duì)方在初次見(jiàn)面時(shí)就對(duì)我說(shuō)這句話,我一定會(huì)覺(jué)得很不爽。而如果這句話出自一位成熟女性的口中,或許也會(huì)給人一種輕浮的印象吧。如果雙方相互熟知性格和習(xí)慣,那么使用這句話肯定是在贊美對(duì)方。
悪気がないのは分かりますが、初対面の場(chǎng)合ですとバカにされているというか、なれなれしく感じてイラッとしてしまいました。
但是初次見(jiàn)面,如果對(duì)方就這么說(shuō)上一句,即使知道他沒(méi)有惡意,也會(huì)有一種被人戲弄了的感覺(jué)。對(duì)方過(guò)于親熱的態(tài)度也讓人很不舒服。
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最近、本當(dāng)に嫌なのは『女子』や『女子會(huì)』という言葉です
最近特別反感『女子』、『女子會(huì)』這類說(shuō)法
しかも若くもないアラサー以上の女性のほうが、結(jié)構(gòu)使っている気がして…。女子や男子って言い方は、學(xué)生までにして欲しい。同じ女性として、なんだか恥ずかしいです。
這種說(shuō)法偏偏是在30歲以上的女性群體中比較流行。“女子”或者“男子”這類的稱呼,真希望你們就在學(xué)生時(shí)代用用就算了吧。身為女性的我聽(tīng)了都覺(jué)得有點(diǎn)不好意思了。