我們都知道,日語中的漢字有兩種讀法,分別為“音讀”和“訓(xùn)讀”。前者來自漢字本身的發(fā)音,而后者為日語固有的發(fā)音。然而我們會發(fā)現(xiàn),就算是音讀,比如“行”這個漢字,也有兩種或以上的發(fā)音:「ぎょう」、「こう」。因此,音讀又分為兩種,分別是“吳音”與“漢音”。今天就一起了解一下日語中漢字讀音的演變吧。
“吳音”與“漢音”
日本語における漢字の読み方には大きく分けて「呉音」と「漢音」の二種類がある。たとえば「行」という字は「ぎゃう(ぎょう)」、「かう(こう)」、「正」の字は「しゃう(しょう)」、「せい」、「米」の字は「まい」、「べい」といった具合に、どの漢字にも二組の読み方がある。前者が呉音、後者が漢音と呼ばれるものである。
日本的漢字讀法大致分為“吳音”與“漢音”兩種。比如“行”這個字,讀作“ぎゃう(ぎょう)”、“かう(こう)”,“正”字讀作“しゃう(しょう)”、“せい”,“米”讀作“まい”、“べい”,無論哪一個漢字都有兩種讀音方法。前者稱作“吳音”,后者稱作“漢音”。
一些常見漢字的讀音對比
これは日本への漢字の伝來が、一度に行われたのではなく、數(shù)度にわたって、しかも中國の異なった地域の発音を伴ってもたらされたことの結(jié)果である。日本への漢字の伝來は、紀元一世紀頃から徐々に行われたと思われるが、大きな波としては、5世紀頃から7世紀にかけて朝鮮半島からの帰化人がもたらした動きと、8世紀に遣唐使や留學(xué)僧が持ち帰ったものとが上げられる。
之所以形成這種結(jié)果,是因為漢字傳到日本并不是一次性完成,而是經(jīng)過多次,并且還帶來了中國不同地區(qū)的發(fā)音。漢字向日本的傳播大致從公元1世紀開始緩慢進行,其間的高潮分別為:5世紀至7世紀朝鮮半島歸化人進行的活動、8世紀時遣唐使和留學(xué)僧的傳播。
“吳音”的演變
百済からやってきた帰化人たちは、呉音を使っていたらしい。その背景としては、百済の知識人たちが、六朝時代を通じて南朝文化と深いかかわりを持っていたことが考えられる。南朝は歴代にわたり、金陵(南京)を中心にした江南地方を根拠にしていた。その地方は「呉」とよばれていたから、そこで用いられていた発音を「呉音」といったのである。
據(jù)記載,從百濟來日的歸化人使用的是吳音,說到其背景,還是因為百濟的知識分子深受中國六朝的影響,與南朝文化存在很深的聯(lián)系。南朝歷代都將以金陵(南京)為中心的江南地區(qū)作為根據(jù)地。這些地區(qū)被稱為“吳”,因此,這里流行的發(fā)音就被叫做“吳音”。
しかし言語學(xué)者の大島正二によれば、呉音の中にもいくとおりかの発音のブレがあるという。このことから呉音自體も、長い時間をかけて、層を重ねるように導(dǎo)入されたのであろうと推測している。
不過,根據(jù)語言學(xué)家大島正二的觀點,吳音內(nèi)部其實也存在幾次發(fā)音上的變遷。由此可以推測,吳音本身也是在漫長的年月中,經(jīng)過多個階段引入日本的。
“漢音”的演變
一方漢音のほうは唐の長安を中心に使われていたものである。唐は隋の後を受けて中國全土を統(tǒng)一した王朝だったこともあり、さまざまな面で中國全土を通じての統(tǒng)一というものにこだわった。言語もその例外ではなかった。
另一方面,漢音的使用區(qū)域以唐朝的長安為中心。唐王朝繼隋之后,統(tǒng)一了整個中國領(lǐng)土,同時也在各種領(lǐng)域上致力于全國統(tǒng)一,語言當(dāng)然也不例外。
それまで長い南北朝時代を通じて、中國の政治と文化は南北に分裂し、文化的にはどちらかというと南のほうが優(yōu)勢であった。だが中國の悠久の歴史においては、黃河中流の中原地帯が中國文化の本筋とも言えるものである。唐はこの本筋の文化に改めててこ入れし、長安や中原で使われていた言葉を、全國の標(biāo)準語として強要した。
在此前漫長的南北朝時代中,中國的政治、文化形成南與北的分裂,而在文化這方面,南方占了優(yōu)勢。不過,在中國悠久的歷史中,黃河中游的中原地區(qū)則一直是中國文化的搖籃。因此唐朝致力于復(fù)興黃河流域的搖籃文化,把長安及中原地區(qū)使用的語言作為全國的標(biāo)準語。
だから李白や杜甫の詩も、漢音で歌われていたに違いないと思われる。これに対して陶淵明は呉音を前提にして詩を作っていたのだろう。
因此,李白和杜甫的詩歌也毫無疑問是使用漢音的。而與此相對,陶淵明的詩歌創(chuàng)作很可能是以吳音為基礎(chǔ)。
“吳音”與“漢音”的對立
遣唐使たちが持ち帰ったのはこの漢音だった。朝廷も唐の文化政策に倣って漢音を尊重し、以後漢字の発音はすべて漢音でするようにとの布告を出した程であったが、しかしそれは浸透しなかった。呉音はすでに日本の文化の中に定著し、そう簡単には排除できなかったのである。
遣唐使們歸國時帶回了漢音。朝廷也熱衷仿效唐朝的文化政策,對漢音很是重視,甚至宣布以后的漢字讀音都以漢音為準,不過這些措施并未擴展開來,因為吳音已經(jīng)在日本文化中生根落腳,并不是簡簡單單就能廢棄掉的。
この時期の漢音と呉音のせめぎあいを物語る面白い事実がある。「日本書紀」はすべて漢音を用いて書かれているのに対して、「古事記」に盛られた歌謡はすべて呉音を用いて書かれていることだ。このことは、呉音が深層にあって、その上に漢音が乗ったということを、別の面から物語っている。
有一個有趣的事例,向我們揭示了這一時期漢音與吳音的對立。那就是《日本書紀》與《古事記》,一個全部采用漢音寫成,而另一個收錄的歌謠卻全部采用了吳音,這個例子從另一視角透露了一個事實:吳音還在深層殘留著,漢音后來居其上。