日本語とは何なのか?日本語はどのように変化しているのか?新しい日本語の使い方とは?
日語到底是什么?日語是怎樣發(fā)生變化的呢?新日語的用法又是什么呢?
「お疲れ様」
“辛苦了”
「お疲れさま」という言葉は非常に無難な雰囲気を持ちあわせていると感じていたのですが、相手によっては気にする方もいれば、全く気にしない方もいらっしゃるわけで。
なかなか勇気のいることかもしれませんが、本人に聞くというのは確実な方法かもしれません。
我感覺“お疲れさま”這句話能帶來非常緩和的氣氛,但是有的人很在意,也有的人完全不在意。說出這句話真的很需要勇氣,不過,關(guān)心一下對方說不定是一種很不錯的方法。
朝晩のない蕓能界という特殊な世界の影響で、「お早うございます」がどこでも使われやすくなった印象があります。
受到?jīng)]日沒夜的演藝圈這種特殊世界的影響,“お早うございます(早上好)”這句話好像在哪里都可以用。
晝から始まる仕事でも、夜のお仕事でも「こんにちは」や「こんばんは」ではなく、「お早うございます」。まぁ1日のスタートという意味で「お早うございます」は不適切ではない気もしますが。
不管是從中午開始的工作,還是晚上的工作也并不是說「こんにちは(你好)」和「こんばんは(晚上好)」,而是「お早うございます(早上好)」。作為新的一天開始的意思說“お早うございます(早上好)”,也勉強說得過去吧。
そうですね。貴様という言葉は本來「あなた様」という相手を敬う言葉だったわけですが、いつの間にやら使い方が変わっていますものね。
還有,“貴様(你這家伙)”這個詞本來是一個尊敬對方表示“你”的詞,然而不知不覺這個詞的使用就發(fā)生了變化。
言葉の意味の捉え方
言語的含義的理解方式
ラジオに出演された際に飯野さんが觸れた言葉の一つに「軽々しい」が挙げられていました。
收音機中出演的時候,飯野先生觸及到了這樣一個詞,叫做“軽々しい(輕率)”。
軽々しいと聞くと、軽率という意味がすぐに浮かびます。政治家に最近多い「軽々しい発言」など。しかし、実際にはお手軽という意味で使うのも今では定著してしまっているとのこと。
聽到“軽々しい(輕率)”,我就會想到輕率這個意思。最近很多政治家做一些“軽々しい発言(輕率的發(fā)言)”等。但是,實際上,現(xiàn)在還有一種簡單,簡便的意義,現(xiàn)在也已經(jīng)固定下來了。
例えば「軽々しく持ち上げる」という使い方。違和感を感じる方はもちろんいるでしょうが、気にも止めない方は普通に使っているはずです。
比如說“軽々しく持ち上げる(隨便拿起、輕輕拿起)”這種使用方法。感覺不協(xié)調(diào)的人,當然還是有的,不過,也有很多不介意的人照常使用。
ら抜き言葉
ら抜き(除去ら的)詞語
言葉の変化ということを考えていた時に、最近はあまりうるさく言う人も少なくなってきましたが、「ら抜き言葉」を思い出しました。「それは食べれない」「ボタン付けれる?」「感じれる強さ」など。
在考慮到語言發(fā)生變化這件事的時候,最近好像很少有人說了,那就是ら抜き(除去ら的)詞語。“それは食べ(ら)れない(那是不能吃的)”“ボタン付け(ら)れる?(能幫我安一個鈕扣嗎?)”“感じ(ら)れる強さ(能感受到的強大)”等。
ただ、畫面を通して話している人が「ら抜き言葉」なのに、テロップにはきちんと「ら」を入れる対応をする番組がほとんどです。話し言葉としてはOKでも表記としてはNG、そういう認識になっているということなのでしょうか。
只是,熒屏里說話的人在使用的雖然是“ら抜き(除去ら的)詞語”,但是,由于是電視字幕還是要正確的將「ら」加進去的。作為口語的話可以但作為表示來用就不可以了,大家現(xiàn)在也都是這么認為的了嗎?
言葉の壽命は一瞬のものも
語言就存在那一瞬間
気づいたら當たり前に使われるようになっている言葉というものはいくつもあります。古くは「超○○」!弗隶纭Ε堡毪螭扦工堡伞工冉衤劋い皮夂韦獠凰甲hに思いませんが、むしろこれが既に死語であるという見方もあります。
稍微注意一下就發(fā)現(xiàn)有很多詞語或者句子被理所當然地使用著。以前有“超○○(非常......)”。“チョ~ウケるんですけど(超~搞笑啊)”,現(xiàn)在聽到了也沒有什么不可思議的,倒不如說現(xiàn)在有人已經(jīng)把這些詞當成廢詞了。
そうなると、今誰でも使うようになっている「ガチ」や「神対応」なども一過性のものになる可能性は充分有り得るわけです。
這樣一來,也就意味著現(xiàn)在大家都在用的“ガチ(認真)”和“神対応(神對應)”等一系列詞匯也很有可能成為一時的東西。
流行語大賞などいうものもありますが、「流行語」と銘打っている以上、流行が終われば消えていく運命。そう考えることは不思議ではないのかもしれません。
還有流行語大獎等等類似的東西,也以“流行語”為名,流行一結(jié)束相繼也就跟著消失了。這樣想一想也沒那么不可思議了。
こだわりと柔軟性
講究和靈活
正しい日本語にこだわる気持ちも確かに大切です。例えば「全然だいじょうぶ!」という語尾に否定を伴わない「全然」の使い方。
堅持使用正確的日語這種做法也是非常重要的。就比如說“全然だいじょうぶ(完全沒問題)!”中“全然(完全)”的用法。
おかしいという方もいるでしょうし、前は普通に使われていたのだから問題ないという方もいるでしょう。少し柔軟に受け止めれば、意味が通じているのだからそれで「全然OK!」という考え方はありなのです。きっと。
當然有人認為很奇怪吧,也有的人認為,之前被普遍使用過的所以也沒有問題吧。稍微靈活地接受它們的話,意思方面是相通的,所以“全然OK!(完全可以!)”的想法也是可以有的。
文章で視覚的に見せる日本語は辭書的に正しい使い方をする方が美しいでしょう。しかしコミュニケーションで使う場合は、考えやニュアンスが正しく伝わることがより重要なのかなと思うわけです。
文章里面能夠看得到的日語,真的像字典里寫的那樣有著正確的用法一定會很優(yōu)雅吧。但是,在交流中使用的語言,我認為想法或者微妙的感覺能夠得到正確的傳達才是更重要的。
そして…一番心配なことはこの文章が日本語を正しく使えているのかということなのですが。
然后…最讓我擔心的就是這篇文章到底有沒有使用正確的日語。