有這樣一些日本的特色詞匯,看似含義簡單,或是場所、物品名稱,或是節(jié)日、自然現(xiàn)象,但其背后卻暗含著豐富的日本文化,以及日本人獨特的思維方式。理解這些詞,不僅有助于我們走近日本,或許也可以讓我們讀懂日本人的內(nèi)心。
本刊原日本專家福井百合子女士以隨筆的形式,向我們講述了這些特色詞匯的含義,宛若開啟了一次發(fā)現(xiàn)之旅。那么,就讓我們跟隨她一起去探索其中的奧妙吧。
以前、曲阜に行った時、名物料理であるギンナン料理を食べた。ギンナンが本來持つ苦みをすべて取り去った甘い味付けのギンナンがてんこ盛りで、私の口には全く合わなかったことを覚えている。その後中國で幾度かギンナンの入った料理を食べたが、みなギンナンが本來もつ苦みが抜かれていて、がっかりしたものだ。私にとってギンナンは、苦みがおいしい食べ物だったからだ。
我以前去曲阜的時候,曾吃過一道特色菜,叫做“詩禮銀杏”。做法是將銀杏原本的苦味全部去除,加“蜜汁”調(diào)制成甜味,再滿滿地擺成一盤。我當(dāng)時覺得這道菜完全不合自己的口味。此后,我在中國又吃過幾次使用銀杏制作的菜品,都是去除掉了銀杏原本的苦味,這讓我很是失望。因為對我而言,銀杏就是一種勝在苦味的美食。
日本料理ではしばしば、本來食材が持っている味である渋みや苦みなどをあえて消さずに調(diào)理される。もちろん、水にさらすなどして抜くこともあるが、渋みや苦みなどをおいしさの一部として捉える傾向があり、ギンナンは苦みがいいものと考えられている。日本人はタラの芽とかゼンマイ、ワラビなどの春先にしか食べられない旬の風(fēng)味を好み、こうした山菜がもつ苦みを珍重する。日本茶も中國の緑茶に比べると、渋みや苦みが強く、ひいては渋みを楽しむという特徴がある飲み物である。
在日本料理的制作過程中,經(jīng)常是要刻意保留澀味、苦味等食材的天然味道的。當(dāng)然,有時候也會將食材用水焯一下去除苦澀,但總體來說還是傾向于將澀味、苦味作為美味的一部分使用,銀杏就是以苦見長的食材。日本人喜歡吃一些早春時節(jié)的時令菜,比如檧木芽、紫萁、蕨菜等,他們很珍視這些野菜的苦味。日本茶和中國的綠茶相比較而言,也是澀味、苦味更為濃重,甚至可以說這是一種專門享用澀味的飲品。
こうした渋み、苦みが必ずしも悪いものではないという意識のもとで、「苦みの走ったよい男」「渋みのある器、渋い色」などという、苦みや渋みを良きものとする表現(xiàn)も生まれた!笢iみ」はとくに日本的美意識においては、「わびさび」とも繋がるとても重要な要素であり、落ち著いた趣がある、地味であるが味わい深いものを指して「渋みがある」と言う!笢iい色」といった場合には、彩度や明度が低い色のことを指し、一般的に日本人はこうした渋い色を好む。
在日本人的意識中,這些澀味和苦味未必是缺點,所以,日語中有很多將澀和苦視為優(yōu)點的表達方式。比如“渾身散發(fā)苦味的優(yōu)秀男子(莊重的男子)”“發(fā)澀(雅致)的器皿、發(fā)澀(素雅)的顏色”等。尤其在日本人的審美意識中,“澀”是與“閑寂和古雅”相通的非常重要的因素,在形容那些不張揚,雖樸素卻耐人尋味的東西時,會說“有澀味(素雅)”。“素雅的顏色”就是指色彩飽和度和亮度低的顏色,日本人通常都喜歡這樣的素色。
一方で、「苦い経験」や「苦い思い」のように使われた場合、「良くない」という意味になる!袱ⅳ稳、渋いね」と言った場合、容姿を指す場合には譽め言葉であっても、行動を指して言った場合には、「ケチだ」と貶していることになる。「出し渋る」と言った場合には、「出したくない様子である」ということで、「渋い返事」と言えば「良くない返事」という意味であり、ためらう様子、物事がすらすら進まない様子などを示すこともある。
而用來組成“痛苦的經(jīng)驗”或“痛苦的回憶”這類短語時,通常表達“不好”的意思。如果說“那個人充滿澀味”,即便指容貌的時候是褒義詞(莊重),但指行為的時候,則含有貶義,是“吝嗇”的意思。如果說“出手很澀”,就表示“舍不得拿出來的樣子”,說“苦澀的答復(fù)”就代表是“不明確的答復(fù)”,表示猶豫不決,事情進展不順利等。